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ハーリーの起源



今から600年前の琉球王朝時代に中国から伝来したと言われているハーリー。中国ではどのようにして生まれたのでしょう。

人々の愛から生まれたハーリー

ハーリーは、今から600年前の琉球王朝時代に、中国から伝来したと言われています。

紀元前の中国、楚の時代、屈原(くつげん)という人物が居ました。彼は春秋戦国時代を代表する詩人であり、また有能な政治家でもあります。

屈原はその高い政治能力を活かし、楚の国王の側近として働いていました。国王からも国民からも敬愛されている屈原は、次第に他の重臣たちから妬まれるようになりました。
屈原を 妬んだ他の重臣たちは、屈原が不利になるような事を王に吹き込むようになりました。その結果、王の逆鱗に触れた屈原は、王の側近から外されることとなりました。
そんな中、王は秦の謀略におち、楚軍は大敗します。




その後、屈原は政治の世界に復帰しました。そこでまた、秦が王に家族の婚姻関係を結ぼうと持ちかけていることを知ります。
屈原は秦は信用ならないと、王に伝えましたが、親秦派の者に勧められた王は秦へ行くことにしました。
結果、王はまたもや秦の謀略にはまり、監禁されてしまうこととなりました。

王が秦に捕らえられた楚国では、新しい王をたてました。しかし、以前から屈原と仲が良くなかった新しい王は、屈原を江南へと左遷したのです。
その後、秦によって都が陥落し、楚の将来を悲観した屈原は「魚の腹に葬らるるとも 何ぞ俗々の身を以って 世の俗塵に染まん」(濁世に生きるより、魚の腹中に葬られるほうが潔い)という遺書を残し、川へと身を投げました。



屈原を慕う民達は「魚が屈原を傷つけないように」と太鼓やドラを使って魚を近づかせないようにしながら屈原を探しました。しかし残念ながら屈原は見つかりませんでした。それが5月5日のことだったと言われています。
そして毎年、屈原を偲んだ民が、龍船競漕を彼の命日に行うようになりました。これが中国での龍舟競漕(ドラゴンボート)の始まりだとされています。

その後、琉球に伝わったのは、今から約600年前で、伝来したいわれとしては様々な説がありますが、なかでも有力なのが、
「14世紀に中国に留学した学生が現地で見た爬龍船競漕を琉球に伝えた」
という説と、
「那覇市出身の長浜大夫という人物が琉球の使者として中国にいった時に感動して、王府に伝えた」
という説です。他にも様々な説があり、地域によっても違いますが、色々な説に思いを馳せてみるのも面白いのではないでしょうか。




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